想像力は経験のたまもの

 

よく若い人は社会に出る際、「クリエイティブな仕事がしたい!」と言います。
 
アイデアを使って斬新な広告やCM、イベントを企画して世間の注目を浴び、
年間何億円と稼ぐクリエイターはかっこ良く、若者が憧れるのもうなずけます。
 
嫌な上司や客の言うことを聞くだけの会社勤めではなく、自分の実力で大金を手にすることは、
若者の眼には魅力的に映るはずです。
 
でも、彼らは本当にクリエイティブさを求めるが故にクリエイターになりたがるのでしょうか?
 
 
おそらく答えはNO。
 
 
私自身、学生時代に同じような感覚でいたのでわかりますが、本当は「地道な努力が嫌い。
でも、みんなに注目されたい」という人がほとんどなのではないでしょうか。
多感な青春時代をバブル後の暗い経済の中で過ごした影響もあるのでしょうが、
現在の若者たちは概して仕事に暗いイメージを持ち、努力を嫌うようです。
 
では、今売れているクリエイターの人たちは、努力をしなかったのでしょうか?
 
 
少し角度を変えて考えてみましょう。
 
 
私は上野の国立博物館に行くのが好きです。
 
いろんな地域の、いろんな年代に作られたものが所狭しと並べられ、
見ているだけで想像力を掻き立てられます。
 
 
先日、アジア館で仏像を見ていたとき、ふと気がつきました。
 
 
「・・・仏像の顔が、地域によって違う?」
 
 
仏像の様式というわけではありません。
仏像の元になっている顔のつくりが違うのです。
 
パキスタン地方の仏像は目鼻立ちがくっきりして顔の彫りが深いのに対し、
中国や韓国の仏像は顔が扁平で、日本人も見慣れた顔。
 
「なるほど、仏像を作る職人さんは自分の国の人間の顔立ちしか知らないから、
それが無意識に仏像の顔に出るんだな」
その時はそのくらいに思いました。
 
そして、またしばらく仏像を見ていて気づきました。
 
 
「あれ?仏様って空想上の存在だよな?確かに奇抜な格好してるけど、服は布や鎧だし、
手に持ってるものも剣や杖みたいに、現実世界にあるものばっかりだな」
 
「手や顔がいくつもあるけど、手も顔も人間にはある。数を変えただけじゃないか」
 
 
仏教に限らず、他の宗教の神々も同じでした。
 
頭がワニだったり羽が生えていたりとバリエーションは豊富ですが、
全て現実に存在するものを付け替えただけ。
「神様」という、想像力の産物以外何者でもない存在なのに、実際は
実に存在するものの集合体だったのです。
 
 
「そうか!想像力というのは、今まで見たり触れたりしてきたものを並べ替えることなんだ!」
 
 
そう、想像力とは既存の知識の付け替えであり、全くの無知から生まれるものではないのです。
 
ということは、想像力を鍛えるには、沢山の経験を積むことが一番。
 
 
 
現代で活躍するクリエイターたちが人を感動させるものを生み出せるのは、想像力のおかげ。
 
そしてその想像力は、苦しい下積み時代や、外に出て自分なりに様々なものに触れてきた
経験の賜物なのです。
 
 
もちろん、経験が多いだけの頭でっかちでは想像力は働きません。
経験を頭の中でミックスし、人が感動する形にするには別の努力が必要です。
 
 
でも、経験は飴細工の飴のようなもの。
 
いくらうまく加工する技術があっても、元になる飴がなければ何も作れません。
 
 
 
そう、想像力は経験の賜物なのです。

 

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